昭和40年05月24日 朝の御理解



 金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えると。金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰る。ある先生に、ある御信者さんが、大体、金光教の信心は将来どういうような、繁盛をたどるでしょうか?どういう風になっていくでしょう?と、というてお伺いをされ、先生がおもむろに仰った。白扇をこうだして、白扇をこう逆さまに持って、「白扇を逆さにみるや富士の山」と。
 白扇をこう逆さまに持ちますと、富士山のように見えますですね。これが、金光教の将来だと、言う意味の事をおっしゃったという話を聞く。ですけれども、果たしてそういう風な、繁盛を辿っておるだろうかと。金光教の信心が。そういう繁盛の、お繰り合わせを頂く為にはです、教団自体がです、そういうような、発展を遂げる為にはです、教団人である私共一人一人がです、その信奉者がです家繁盛、子孫繁盛のおかげを、頂かなければ繁盛になりません。
 教祖の神様もはっきり「金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ」と、親の代よりも子の代。子の代よりも孫の代と、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを願えともおっしゃる。皆さん、本当にそこんところを願わなければなりません。日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂く事を願うんです。というてならその先生のようにですたい、これが金光教の将来だと言うておるだけではです、では駄目です。ね。
 ただそんなら、一生懸命子孫繁盛、家繁盛の道を、おー、繰り返し願って居るだけじゃあいかん。そういう教団としてのおかげもお互いめいめい信奉者がです、いわゆる子孫繁盛の道を体得させてもらい、子孫繁盛のおかげを事実の上に受けていかなければならない。どういうような信心をしよったら、子孫繁盛の道間違いないというような確信も、親の代よりも子の代とおかげを頂いていけれる、道が開けるだろうかと云う事。せめてここのところだけを体得しておきたいと云う事なんです。
 教祖の神様の御教えの中に、「信心をしておって変ってきた事が起きてきたら、おかげと心得て信心せよ」と。信心しよって変った事が起きてきたら、神様にお願いをさせて頂いて、お願いをさせて頂いて、一生懸命のくらいの信心をさせて頂いてです、にも関わらず変った事が起きてきたら、おかげと心得て信心せよと。もうおかげと心得られるところまで信心を進めて置かないけん。これから後どのような事が起こってきても、少しも驚いてはならぬぞとも仰る。ね。
 信心をさせて頂くものがですよ、だからここんところで私は、信心させて頂く者はとこう云う事が勿論、必要。特に今日は、そこんところを、おしなべて言うならばです、椛目に御神縁を頂いておる人はです、ね、これから先どのような事が起こってきても、少しも驚いてはならぬ、驚かんですむ信心。ね。椛目に一生懸命お参りさせて頂きよってです、変った事が起きてきたらおかげと心得られるだけの信心です。
 私はこの信心を頂いておらなければです、これは親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代という様にいわば、金光教の信心がです富士山の山のようにです、高められていく事も、繁盛のおかげになっていく事もないと私は思う。そこでそのそういう例えば金光大神が教えて下さる子孫繁盛の道とか家繁盛の道と言った様なものがです、せめてこれだけくらいこれだけは、頂いておらなければというその、これだけを頂いておらずして、もしそれが繁盛しておるとするならばです、確信は持てんと思うですね。
れは自分の代はこれだけ繁盛のおかげを頂いたけれども、これは子の代孫の代になったら、いよいよこれは繁盛になっていくという確信は持てないと思う。ところがその只今申しますように、これから先どのような事が起こって来ても、驚かんですむどけの信心。ね。信心しておって変った事が、そこんところを椛目に御神縁を頂いておる限りです、ね、神様にお縋りさせて頂いておってです、変った事が起こってきたらです。
 その事をおかげと心得て信心の出来れる信心だけはです私共が身につけていく、その事を思い込む、思い込ませて頂けれるところまで、信心を進めておかなければならないという事。そこで日々の信心体験からです、なるほど、変った事が起こってくるたんびにおかげを頂くんだなと、確信を積んでいかなければ、確信は生まれてこない。その思い込みは出来ないと言う事になるのです。
 私は昨日こんなお夢を頂いた。やっぱりそのご造営の事に関してらしい。これは私が子供の時分に亡くなられたのですけれども、まあ、なんて言うですかね、侠客、ね、遊び人、のあんまりたちの良くない遊び人でした。あそこの人。その人の名前をです、「広田万吉」と言う人。「広田万吉」と言う人。その人がですね、今度のご造営の事についてから椛目のここに因縁を付けて来てござるところを頂いた。
 始めはなんかもの柔らかに言いよんなさったです。ところがだんだん凄みを効かせてですね、自分のその、何ていうですか、まあ、暴力にでも訴えてでもですね、それを成就せんようにするといったような事をですね、事を言うてみえるわけなんです。ね。そこにその、私その人と面接して私の心の中に思いよる事ですたい、ほぉこれは広田万吉さんが来たけんで、これはいよいよ広がるばいなぁ、いよいよおかげになるばいなと思ってその人と面接しておるところのお夢であった。
 これはおかげを頂いて私はそういうその、いわゆる体験を、積み重ねてきておりますし、またその思い込みを私持っておるわけですね。いわゆる信心をしておって、しかも神様にお縋りをしておってです、変った事が起こってきたら、おかげと心得れるようになっておると言う事。だからそれを皆さんが椛目にお参りをさせて頂かれて、それをいつも、私のそういう生き方を見習うておられる訳なんだ。またご自分の上にもそういうおかげを頂いてきておるわけなんだ。
 いわゆる変った事が起こってきたら、おかげと心得ておるわけなんだ。これは、今日お参りをしておられませんですかね、松本さんと言われる宮ノ陣から参ってこられる方があります。こちらの娘さんが昨日一昨日、昨日の事、昨日ですから、あのお夢を頂かれた。いうならば競争相手と言ったような方でしょうね、その娘さんのその事がもう何かに付けて、その娘の名前が明子さんともうしますが、その、明子さんのいろんな事についてのその、いつも邪魔をされる障害をする。
 例えば縁談なら縁談の話があるとですね、すぐ崩しにかかっしゃる。というだから明子さんもその事を思い込んでおる。まあ、あの人ばかりはどうしてその、自分の為にこげんその、当たらんならんだろうかと、ああせんならんだろうかとこう思うておる。ところがそのお夢の中にですね、その人がその明子さんに体ごとそのぶつかってくるそうですたい。その明子さんも中々しっかりした人なんです。
 ありゃ元気もんです、ありゃ。ね、どうしてあげんつっかかってくるかち、というてその自分が押しかかってくるのは向こうに押しやってから、どういう訳でその自分に突っかかって、そげんして突っかかってこなんかち言うて、質問したところがです、ね、どこからか、こういう声が聞こえてきたち。「あんたに力を与えたいばっかりよ」ち声がかかってきたち。そこで目が覚めたち。
 どういうわけであんた私にぶつかってこなければならんかという頂き方では、おかげにならんと言う事。神様のお声がですだと思うのです。神様のお声がです、そうしてあんたに力を与えたいばっかりよという声を聞いたち。してみるとぶつかられる、そん時痛い思いをされるかもしれんけれども、向こうえ押しやる様な事をせずにです、その事をやはり合掌して受けるというか、その事をもって力を神様が作って下さるんだという、お礼心というものがです、出来なければならんかという事が分かるでしょう。
 皆さん、本当に今私が申しましたお話をですよ、これはもういつも椛目でお話をする事なんです。私はいつも思うのですけれども、これは日々の事がそうですけれども特に、月並祭の時、ね、同じ楽人さんたちが、同じ、楽の調べを致します。そして先生方が同じ顔で、同じ格好をしながら、あのお祭りのお月並祭なら月並祭が奉仕されます。皆さんはあの月並祭なんか拝まれてどんな風に感じられるでしょうか?ね。
 もうとにかくお祭りを仕えられるとずうとこう同じ事を度々しなさるち。あの、しかも、飽いたというか倦怠というか、そういうようなものを感じられるか、いつもあの、月並祭のあの雰囲気がです、楽の同じ歌。同じ琴の調べと。同じ例えば祝詞を奏上させて頂いて、お互いがあの月並祭を頂くがです、度々に違う更な、思いで頂けれるかどうかという事なんです。頂けておるでしょう。
 皆さんは頂けておると私は思う。私自身そうです。もういつも新しいものに触れる思い。いつも新しいあの琴の調べを聞く思い。それは丁度お腹がすいて居る時にご飯を頂くように、このご飯は昨日も食べたと言った様なものではなくて、やっぱりそれがそのお腹が空いておるような、やっぱり生唾がでるようにです、はよご飯が頂きたいという気持ちがするようにです、私はお月並祭度に有難さを感じるのですけれどもね。
 皆さんそう言う様な感じ、そう言う様な頂き方、それをしかも、日々のこうやってお参りさせてもらい、御理解を頂く事がです、もう例えば、今申しますような事を、いつも私がお話をする事なんですけれども、本当にそうどころではないもんねえという頂き方をしよらんとですね、今日私が申しますような、おかげにはなってこないです。思い込みというものも出来てこないです。
 信心をさせて頂いておって変わった事が起こってきたらおかげと心得させてもらう。有難うございますという気持ちになる。どういう例えばそれに因縁をつけてくるような場合であっても、ね、おかげになるばいなあと心の中で思えれる信心。はあこれはまたいいようになるばい。また、おかげを頂くバイ。と例えばその事にはその、その顔をするわけにはいかんからですね、
 まあ、その慎重にしておってもです心の中では、はぁ神様がこれでまた一回り大きくならせて下さるなあという気持ちがするような信心にならせて頂かなければです、そういう信心が基礎として出来なければです、私は、子孫繁盛のおかげにはなってこないと思う。また、そういう信心が心の中にだんだん思い込みが出来てくるようになるからです、成程、いよいよ私の代よりも子供の代というおかげが頂けれるなあという確信が持てれる。また事実、おかげもそれで受けるわけなんだ。ね。
 どうぞみなさん、教祖の神様が嘘を仰るとは思われません。もう教祖の神様が仰ることがそのまま、素直にそうどころではない、とその確信をさせて頂く為にです日々をそうした、信心の稽古をさせて頂いて、信心しておってですよ、だから、信心のないものはですよ、信心のないものは私は難儀が起こってくれば難儀の度に一生を通じてですたい、本当にあの難儀に会うてさえ居なかったら今頃は、まちっとましじゃったろうという、これはなるだろうとこれは思います。
 けれども、信心をさせて頂く者は絶対そうじゃないです。もう、必ず、一生をいわばそのその振り返って見る時です、自分の過去なら過去を振り返ってみてみる時です、あの難儀があの困った事がです、あの変わったことが全部自分の力になる。全部おかげの元になっておるというような、おかげを、なっておるです。だからそういう体験を積み上げられていくから、今申しますような、確信が持てるのです。
 ですから成程信心にならせて頂くと言う事にです、喜び楽しみが湧いてくる訳なんです。そんなにいわゆる我情我欲を言う必要はないなあという事にまで進展してくる訳なんです。神様のおかげを頂けば繁盛になって行くのだから、自分の小さい思いで我情をださんでも、自分の小さい思いでです欲を起こさんでもです、神様に喜んで頂きながら繁盛な道を辿らせて頂さえすれば繁盛になって来る事が分かってまいりますから、愈々人と何の上にもです、何事にも信心になる事が出来るわけなのです。
 ここのところだけは、皆さん一つ本気で思い込みの出来れるどんなに、私にぶつかってくる人があってもです、どうしてぶつかるか私にと思わずにです、神様の声をいつも聞く思い、あんたに力を与えたいばっかりよという思いなんです。自分だけが因縁をつけられるな、いわば変わった事が起こって参りましてもです、はぁこれはまた広なるな、また大きくなるな、とまた、一回りおかげが大きゅうなるなといういわば。
 心の中にです一つの喜びを持ってそれが、受けてたたれるだけの信心がです、私は必要でありそういうものが私供の信心の内容にです、その思い込むというのがです、出来てくるおかげを頂かなければいけん。ね皆さんそれが段々出来ておられる事は私も知っておる。それがいよいよ確信付けられたら、ですからもう椛目の方達の場合なんかは信心友達の誰彼さんの場合なんかはです、これまたあれで徳を受けなっさるばい。
 あれでまたおかげを受けなさるばいと言う事が分かるんだけれども、さあ当の本人だけは本にこれだけ信心するのにといったような顔をしておる。昨日でしたかね、関さんがここでお届けをしておられますよ。日にこの頃二編も三編もです、大きな声で鳴きたいごたるあの、苦しいけんじゃなかですよ。もう有難うしてこたえんな、本当に、大声を挙げて泣きたいごたるとお話をされております。
 弘子さんと2人ここで。ね。嘘じゃない。本当だと私は思うんです。ね。けれども一年前のあの時の時にです、ね、どうしてこの様な事が、これだけ信心しよるとにと、どうしてこげな事が起こってくるじゃろうかと言う様な、思いがです、多少はあったんではないかと。だから苦しい事のみだったという事だったのではないかと言う事です。ああ言う様な所を通り抜かせて頂いたおかげでです、人が味わえんようなです。
 大声を挙げて鳴きたいごたる、感動というか感激がです日に何回か湧いてくるとこういうわけなんです。その感動がです、次のおかげの元になって行く事は間違いないです。ですからいうならあの時です、美登里会におかげを頂いておりますから、美登里会の方達がです、ね、応援のようにしてお見舞いにおい出られたり、ね、一生懸命のお祈り添えがしっかりありましたです。ね、
 そして関さんはもうここを通り抜けられたらどげなおかげをいただかっしゃるだろうかと周囲の楽しみを感じるような、だけれども、当の本人はそうではなかったと言う事。そこでです、なここで繰り返し繰り返し、ね、そういう同じような難儀がいつもこう続いたんじゃあこまりますけれども、それよりもっともっと垢抜けした、ね、変わった事というのが起こってきた場合でもです。どっこいと受けれる信心が出来ていかなければならない、だから第三者の場合、第三者の立場でするとです。
 椛目の方達は皆そこん所は分かっておるですね。はあ、あの変わった事、あの変わった事を今度は,あの人がどげな風に受けていきなさるじゃろうかと、私ならこう受けていくというて、自分の、人の事だったら気安う分かるだけの所までの事は頂いておるのでございますから、自分のことになった場合でもそれが、気安うところではない有り難う、受けていけれるような、信心を頂かなくてはいけん、身に付けていかなければいけんと言う事なんですね。
   おかげを頂かねばなりません。